狩野芳崖と四天王 ─近代日本画、もうひとつの水脈─ @泉屋博古館分館

狩野芳崖と四天王 ─近代日本画、もうひとつの水脈─ @泉屋博古館分館

今回は泉屋博古館分館の特別展 狩野芳崖と四天王 ─ 近代日本画、もうひとつの水脈 ─のブロガー内覧会に参加してきました。展示の見どころについて泉屋博古館分館 分館長の野地耕一郎氏にお話しを伺いました。(今回は美術館より特別な許可を頂いて撮影しております)

明治を迎えた狩野派の苦悩

この展覧会では明治という時代の近代における日本絵画がどのようなものだったのかを掘り下げます。近代の日本画の大きな根幹を作ったのは狩野派です。

狩野派は江戸時代は各藩や将軍家のお抱えの絵師だったが明治維新で瓦解してしまいます。

画家達は俸給制であったため、食い扶持がなくなって絵が描けなくなってしまいます。そのような時代が明治維新から明治15年くらいです。

狩野芳崖や橋本雅邦なども例外でなく、陶器や漆器の下絵などで稼いでいましたが、なかなか食えない。その頃の芳崖は泉屋博古館に近い、愛宕下に住んでいました。元々は下関にいたものの、そこでは食えないと愛宕下に出てきたが、そのうち明治政府が制定した各省庁の絵を書く仕事で図や絵を描く仕事を得るようになりました。しかし、本当に描きたかった芸術としての絵は描けずにいました。

そこで現れたのがフェノロサです。フェノロサは東京大学で哲学を教える傍ら、東洋絵画の研究を行いました。また、研究だけでなく自らコレクションもし、日本絵画史を記述するようになりました。そのアドバイザーとなったのが狩野芳崖や橋本雅邦などの狩野派の画家たちです。狩野派の画家たちは、古画の鑑定ができたため、この絵はどの時代のどういう人が描いたのかということがわかり、フェノロサの研究を助けました。そして、鑑画会という美術団体を発足し、そこで活躍したのが狩野芳崖、橋本雅邦、狩野友信らでした。

狩野芳崖と四天王 人物相関図

幕末から明治の近代日本画における3つの四天王

今回の展覧会では四天王がキーワードになっています。3つの章それぞれに四天王がいます。

まず第一章は「狩野芳崖と狩野派の画家たち」で、狩野芳崖をメインに橋本雅邦、木村立嶽、狩野友信の作品を展示しています。

第一章「狩野芳崖と狩野派の画家たち」展示風景より

江戸後期、木挽町狩野家、中橋狩野家、鍛冶橋狩野家が外堀通り周辺にありました。江戸後期に最も力を持っていたのが木挽町狩野家です。そこで、四天王と呼ばれていたのが芳崖、雅邦、立嶽、そして狩野勝玉です。しかし、作品が少ないため、今回は幕末明治の四天王ということで友信を代わりに入れています。明治時代に狩野派を学んだ画家たちがどういう絵に向かっていったのかが見どころです。

そして、第2章 芳崖四天王ー芳崖芸術を受け継ぐ者では狩野芳崖の4人の弟子、岡倉秋水、岡不崩、高屋肖哲、本多天城の作品を芳崖四天王として展示しています。芳崖から学び、狩野派から明治時代の新しい絵画に変容させていく動きが感じられます。

第2章 芳崖四天王ー芳崖芸術を受け継ぐ者 展示風景より

最後の第3章 芳崖四天王の同窓生たちー「朦朧体の四天王」による革新画風ーでは、東京美術学校で学び、革新的に発展させた横山大観、下村観山、菱田春草、西郷弧月を朦朧体四天王としてそこに木村武山を加え、展示しています。

第3章 芳崖四天王の同窓生たちー「朦朧体の四天王」による革新画風ー展示風景より

実は芳崖四天王と朦朧体四天王は同窓生で、この5人と比較することで、明治の狩野派の流れとともに明治の日本画の流れを感じることをテーマとしています。

伏龍羅漢図から朦朧体へ

各章から特に興味深かったものをピックアップしてご紹介します。

狩野芳崖の伏龍羅漢図

中央 狩野芳崖 伏龍羅漢図

まずは第一章から狩野芳崖の伏龍羅漢図です。フェノロサとの出会いから、遠近法や線描の変化、色彩、定型からモデルを起用した人物、動物(イタリアのサーカスのライオンをモデルにした獅子図もあり)描写などの変化が芳崖の絵にも齎されます。伏龍羅漢図はそれまでの羅漢図をさらに変容させ、肉体のぎくしゃく感や線の面白みを感じられます。鮮やかな色彩は西洋からフェノロサが持ち込んだ顔料が使われています。また、腰に巻きつく龍もどこかユーモラスな表情です。これは、牛が咀嚼する様子をモデルにしているそうです。実在の動物をモデルにすることで、幻獣である龍に生き生きとしたリアリティが生まれました。そして、背景の奥から渦巻く空間は3Dのような立体感を持っています。

ちなみにこちらの伏龍羅漢図は10月8日までの展示となります。また、10月10日からはこの展示会のメインビジュアルにもなっている狩野芳崖の悲母観音や仁王捉鬼図が登場します。

また、静岡県立美術館でも、「幕末狩野派展」が開催されています。ちょうど木挽町狩野家が最も力があった時代です。こちらの展示にも明治時代の狩野派の基礎となる関係する作品が展示されています。

高屋肖哲 武帝達磨謁見図

高屋肖哲 武帝達磨謁見図

高屋肖哲の武帝達磨謁見図はインドから中国へ禅の教えを伝えたとされる達磨と梁の武帝の謁見の様子を描いたものですが、達磨は禅宗の僧、喰えない受け答えをしたと伝わっていて、達磨の表情も飄々としているように見えます。また、達磨の背景の衝立には波の画中画が描かれ、インドから遥々中国まで旅をしてきた達磨の今までの旅路とこの後揚子江を葦で渡るこれからの旅路を暗示しています。また、衝立の後ろの2人の役人のうち、右側の人物は妙にリアルな描写で顔が描かれています。これはおそらく高屋肖哲本人とされ、西洋歴史画に、ラファエロやボッティチェリが行った自身を描き込む文化を高屋肖哲が知っていて行ったと考えられます。ただ、残念ながら高屋肖哲の正面写真は残されていないため、断定はできません。

菱田春草 海辺朝陽と横山大観 杜鵑

(左)菱田春草 海辺朝陽 (右)横山大観 杜鵑

朦朧体四天王と芳崖四天王を比べると、芳崖四天王も本多天城の風景画などから表現は朦朧体寄りの油彩的なものもあります。しかし、大きな違いは朦朧体四天王の画題の新しさと線です。芳崖四天王は古典的な画題を西洋絵画の表現を取り入れて描いたのに対し、朦朧体四天王は一歩踏み出して新しい画題に取り組みました。そして、線のなくしていく過程を時代ごとに見れるのも今回の展示の特徴です。朦朧体の画家たちは空や雨、朝日など朦朧とした美観を描き始めます。菱田春草の海辺朝陽や横山大観の杜鵑は画題や表現がガラリと変わっています。ただ当時は線をなくしたことにより、何を描いたかわからないという批判を受けます。そしてまた線を利用し始めることになりますが、墨の線だけでなく色の線を用いることにより酒井抱一や鈴木其一などの江戸琳派の影響を多大に受けました。

近代日本画の父と呼ばれる狩野芳崖と3つの四天王を通じて、近代の日本画の変化を体感してみてはいかがでしょうか。

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特別展 狩野芳崖と四天王 ─ 近代日本画、もうひとつの水脈 ─

会期:2018年9月15日(土)~2018年10月28日(日)
【前期】2018年9月15日(土)~10月8日(月・祝)
【後期】2018年10月10日(水)~10月28日(日)

会場:泉屋博古館分館
〒106-0032 東京都港区六本木1-5-1
電話:03-5777-8600 (ハローダイヤル)

料金:一般 800(640)円 / 高大生 600(480)円 / 中学生以下 無料
※( )内は20名以上の団体料金
※障がい者手帳ご呈示の方および付添人1名まで無料

休館日:月曜日(ただし、9月17日、24日、10月8日は開館)、9月18日(火)、25日(火)、10月9日(火)

(左)岡不崩、渓谷山水 (右)本多天城、山水 野地分館長によると本多天城の絵画がこの展覧会のきっかけとなったとのこと。

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